始まりも終わりもない世界
またもや本編から脱線。
昔、ふと思ったことを書きたくなってきた。
書き始めていたら猛烈に長くなったので、簡潔にまとめることにする。それでも長いが…
ある物質を細かく見ていくと、原子、クォーク…等と新しく謎の言葉がどんどん出てくる。
逆に大きく見ていくと、地球、太陽系、銀河…等とこれまた新しく謎の言葉がどんどん出てくる。
小さい分野も大きい分野も、これからも専門家にしか分からないような謎の言葉が出てくるのだろう。
なぜこれらを探し続けるのだろう。理由としていくつか考えられる。
1.新技術の開発、文化水準の発展のため。
2.世界の本質が何かを知るため。
3.死後に何があるのかを知るため。
4.その他
現在、これらの理由は人により様々だろうが、人類誕生時から今に至るまでの経緯から順番を推測してみる。
おそらく3から2に派生し、それが1につながることに気づいたというところだろう。
つまり3の「死後に何があるのかを知るため」が根源としての理由と思われる。
生存本能から結びついた疑問だから、これは深く根強い。
人には明確な終わりがある。
「死ぬ」ということ。
ある特別な思考をもった人たちは例外として、たいていの人は死が怖い。
生まれる事について人があまり恐怖を感じないのは、「生」は自分にとって既成事実だからだろう。
死は誰にでも確実に訪れる予測不可能な未来だから怖い。
なぜ怖いか?
詳しく書くと本題から大幅に脱線するので一言に凝縮する。
人は思考する生き物であり、思考することこそが自分自身の存在の本質だからだ。
(なお、死に関しても心臓死や脳死など様々な捉え方があるが、本文では「人」の死は「思考の永久停止」と捉える)
それゆえ、人は
「思考という自分自身」の存在の消滅を逃れるための「その先の世界」を求めるようになる。
「その先の世界」の存在を求めるのは人が人である所以だ。「存在の本質である思考をする場が無くなる」と思うことが本能的に怖いからということだろう。
だから、人は「今」を基準とした「その先の世界」である過去や未来に興味をもつ。
ごく身近なところでいえば、アルバムを開くことや将来像を思い描くことも過去や未来に興味を持っていることの例だ。
ただ「その先の世界」はアルバムなどの範囲に納まらない。その先の世界を証明すればするほど新たな「その先の世界」を探そうとする。それは冒頭に上げた宇宙やクォークの先を探す事にも通じている。
人には明確な終わりがある。
そのために人は「その先の世界」を探そうとし、無限に続く作業を行い続ける。
まるで鏡の中に映る鏡の終焉を探すような作業だ。
終わりを知りたいのに、知るのが怖いという矛盾を抱えながら探求を続けている。
「その先の世界」を探そうとするということは
「全ての現象には必ず始まりと終わりが存在している」という前提が無条件に存在しているからなのだろう。
そもそも、
その前提は正しいのか。
人に明確な終わりがあるからといって、人以外の現象に明確な終わりがあるのだろうか。
確かに人以外の生き物にも終わりはある。
地球もいつかは消滅する。
では、宇宙より大きく、クォークよりも小さい存在はどうだろう。
たぶん終わりはあるのだろう。
それらが終わった後は何が存在するのだろう。
エネルギーが物質を構成し、物質がエネルギーに変化することの繰り返しだろうか。
では、そもそも、その繰り返しが始まった原因は何だろう。
その繰り返しの始まりは、その繰り返しの終わりは存在するのだろうか。
そもそも「始まりと終わり」という概念自体が正しいのだろうか。
「始まりと終わり」という概念は、人が生まれ死んでいくという必然の過程の中で得た、不確実な経験則に過ぎないのではないだろうか。そこに絶対的な前提を置く事は正しいことなのだろうか。
全ての現象を包括的に捉えてみよう。
そこには「始まりと終わり」も存在するが、それを包んで「始まりも終わりもない世界」が存在するように思えないか。
あるいは理解を超えた世界の存在。
こういうと、宗教的な意味合いを持ち始めてしまうのかもしれないが、神や仏などというものは人が人の枠内で考えた概念に過ぎない。
もし馬に宗教があったら、そこに出てくる神や聖人(馬?)は、人ではなく馬を基準に考えられているだろう。
人は馬の考えた世界観を信じない。馬も人の考えた世界観を信じない。だから宗教の提示する世界観は普遍的ではない。
以上の理由から、本文は宗教的な意味合いはなく、事実の提示とそれに対する推論だ。
ただ、一つの哲学としての宗教観やそれに付随した文化、芸術は大きな尊重の対象ではある。
始まりも終わりもない世界。
その中に物質の変化とそれらの離合集散という「始まりと終わり」が存在する。
足場がない世界に足場を求めれば、無いということに対し恐怖を感じる。
ならば、そもそも最初から足場の無い世界に存在していることを認識すれば良い。
揺らぐことを怖れるのではなく、もともと揺らいでいることを認識していれば無駄に不安になることもない。
こんなことを昔、考えていた。
しかし、ふと、ここで最大の疑問が芽生えた。
「だから、それがどーした?」
永久に解くことの出来ない疑問だ。
こんなこと考えているんだったら、美味しい晩飯の調理法を考えた方がよほど有益だろう。
※なお、余談だが、ギリシャ神話には時間という概念がなかったという。そう考えると古代ギリシャ人には始まりと終わりという概念が薄かったのかもしれない。